どれくらい時が経っただろう。
智は相変わらず兀然と国道の歩道から動けずにいた。雨はいまだ降り続いている。時折傘をさした通行人が通るが、彼らは智の身体をすり抜けて足早に歩いていく。携帯はもう駄目になっただろう。暫く着信音が鳴っていない。
寒いな…。
智は薄手のシャツにパーカーを羽織っただけの軽装で家を出たことを後悔した。両手で肩を抱いて蹲る。
こんな場所で歩道をふさいでいても、誰の邪魔にもならない。雨すらも自分を通り抜けている。透ける水滴。
智は不安になってきた。漸く事態が飲み込めてきた今、何をしたらいいのかもどこに行ったらいいのかも分からずに途方に暮れた。


自分は事故で死んだ。
そして幽霊になった。
確かにここにいるのに、誰にも気付かれない。
確かに接しているのに、誰にも触れられない。


はあ。
大きなため息が、白くなる。確かに、白くなる。
智はきつく目を閉じてゆるゆるとかぶりを振った。目を開けたら全てが夢だったら良いのにと切に願いながら。
さん、にぃ、いち。
赤く滲んだ誘導等。警官がまだ交通整備をしている。その近くにはバンパーのつぶれたトラックとひしゃげた黄色いタクシー。パトカーの赤い光。
変わりようがない現実。
もう一度深くため息をつき、智は立ち上がった。
いつまでもここにいても仕方がないと思ったのだ。事故現場を確認するのは嫌だったが、現状を知っておかなければいけない気がした。
智はゆるりと宙を移動した。案外楽だし、早く移動できるもんだな。慣れると楽しいかもしれない。そう考えていた自分に気付き、意外と冷静なのだなと少し安心した。


現場は凄惨なものだった。オイルが雨によって排水溝に流れていく。よく見ると血が混ざっていた。
この状況からして、タクシーが信号に従って発進したところに、居眠り運転かなにかで信号無視をして交差点内に入り込んだトラックが追突したようだ。
トラックは一見たいして被害がなさそうだと思ったのだが、フロントガラスに血痕とひびがはいっていた。すごい衝撃だったのだろう。
一方タクシーの左横腹はぺしゃんこだった。一目瞭然で後部座席に乗っていた自分が一番酷い怪我をしたのだと判った。
パトカーの中に入っている現場検証の書類には、『即死1名・重症2名』と書かれていた。他の部分は暗くてよく見えない。けれどそれだけ分かれば智には十分だった。

智は逃げるようにその場を去った。自分で現状を知っておこうと思ったとはいえ、やはり見たくなかった。
自分は本当に死んでしまった。あっけなく20年の生涯を閉じた。あと数日後に待つ誕生日を迎えることができずに、生命の炎を捻じ消されてしまった。



別段将来に期待することはなかった。毎日なんとなく生きていた。
父親が有名大企業傘下の研究所を持っていたのだが、その父親は智が1歳のときに病気で死んだ。だから智には父親の記憶がひとつもない。写真嫌いだったようで、1枚も残っていなかった。
父が死んでから母は空閨を守れなくなり、外に出ては若い男をはべらせるようになった。健二はそのときにできた子供である。智と同様に健二も自分の父親を知らない。智の父親とは別の、身元不詳の男なのだろうということは知っている。
そんな幼い2人の兄弟を誰よりも気にかけてくれたのが現在の所長だ。彼は生前の智の父親のことを『所長の癖に誰よりも研究熱心な人だったんだよ』と小学生のときにこっそり智に教えてくれた。彼は智が父親の跡を継いで研究所に入ることを望んでいて、けれど健二も智と平等に可愛がってくれた。今の2人は彼なしでは生きていないと言い切れるほどに。
だから智は彼の望みに答えることにした。高校2年の冬に飛び級で国立の理工学部に入ると彼は「一緒に働ける日が来るのが短くなった」と大いに喜んだ。入学してはじめの2年間の勉強は楽しいとはいえないものだったけれど、そのおかげで後半の2年間は研究の幅が広がり、興味深いことを沢山学んだ。この春からは大学院に進むことが決まっていた。


その日々が有意義ではなかったといったら嘘になるけれど。
どうしても気になってしまっていた。
他の皆とは違う自分。
賞賛され、尊敬され、同時に嫉まれ、疎まれた。
感情がうまく表に出せない。
幸せな家族の風景。
子供たちの笑い声。夕方の、下校を促すアナウンス。ゆうやけこやけ
繁華街を徘徊する血のつながらない、けれど愛しい弟。
夢。自由。希望。がむしゃらに走ること。未来。
手を伸ばそうと思えば出来るのに、智はそれが出来ずに生きてきた。


智は空にぽっかり浮かんでいた。両腕を伸ばしてみる。生前出来なかったこと。漆黒の空を覆う濃灰色の厚い雨雲。都心は深夜でも光が消えることはない。ビルの明かり。首都高を疾走する車のヘッドライト。それらが智の両腕を通して全部見ることが出来る。フィルムのよう。幼い頃に健二と作った。あか、あお、きいろのフィルムを使った紙のステンドガラス。三色を重ねて作ったみどり、むらさき、だいだい
どう重ねてみても、こんな肌の色なんて作れなかった。


もっとやりたいことが沢山あった。
これから僕はどうしたらいいんだろう。



遠くの港から、汽笛が泣き声のように響きわたった。