長い夜だな。
こんなに夜が長く感じたことがかつてあっただろうか。
智は歩道橋から国道を走り去る車を眺めながらまた一つ、大きな溜め息をついた。
この路は水はけが悪く、轍に溜まった雨水がタイヤにかき回されて、波をたてていく。雨の日に歩道を歩いていると、大量の雨水を撥ねられて大変なことになるのだ。
確か僕も健二も何度か濡れ鼠になったことがあったな。
懐かしさに口角が片方だけ上がった。
こんな笑い方しか出来なくなったのはいつからだったっけ。
髪が湿気を帯びて額に張り付いて気持ちが悪い。霊ってものは雨に降られなくても湿るものなのか?
智は両手で鬱陶しく纏わりつく前髪を掻きあげた。



誰か、幽霊が見える人はいないのだろうか。
それか、霊を連れていくもの。
死神でもなんでもいい。
お願いだから早くどこかへ僕を連れて行ってくれ。
誰でもいい。
誰か。早く。




「身体を失くしたことがそんなに悲しい?」




眼前に眼が二つあった。
あ、鼻もある。口。顎。目線が少し下がって、漆黒の双眸。耳。眉。白く狭い額。長めの黒髪が重力に従って地面に向かっている。上下が反対だ。
「びっくりした?」
幼さの残るハスキーな声が振ってきたと思ったら、今度は背後に回って耳元から聴こえる。夢を見ているのだろうか。それともこれが、僕がたった今切に願った『お迎え』というものなのだろうか。
こちらの顔を覗き込んでくる白い顔は、上機嫌そうににっこりと笑みを湛えていた。
智は相手と向き合って話しかけてみた。
「君は誰?」
「うん?君と同じだよ」
「それはわかる。お迎えの人?」
「いや、僕はただの浮遊霊。そうだな…かれこれ20年は経つかな」
「…20年!?」
驚いた。この状態で20年間もの年月をこの世界で過ごしてきたのか。想像を絶する返答に智は目を見開いたまま閉口せざるをえない。
それを見て彼は無邪気ににしゃり笑んだ。
「そんなに驚くことじゃないよ。この世界では何世紀も前から成仏できないまま怨念を持って、人間に悪さをする霊魂なんてざらだから。
まあ、そういう奴らはとっくの昔に記憶をなくしてしまっているけれど。
奴らはマイナスの感情しか持てなくなって、地形が下がって水のたまったところに沈殿したり、同じようにマイナスの感情を持った人間についてまわったり、事故の多い市街地や自殺の多い観光地、戦場跡や死刑場跡や廃墟に集まって悪さをするんだ。そういうところは他のことろよりも暗くて湿っていて、その中は泥に接着剤を練り合わせたみたいになっていて少し足を踏み入れただけでも抜け出せないんだ。いや、踏み入れるというか、その近くを通ると引き込まれそうになるんだ。」
君も気をつけなよ。
そう付け足して彼はまた笑った。
「20年もの間、ずっと独りでいたの?」
「ひとりじゃないよ。恋人の近くにいたり、偶にきみみたいに意識のある霊と話したり…あとは稀に霊が見える人間と話したりもする。本当に稀にだけど」
「恋人って…気付かれないのに?」
「うん。でも愛している人のそばにいるだけで、見守っているだけで幸せだから」
「…そう」
智は彼を見つめた。16、7歳の少年だ。真っ白いワイシャツに黒いズボン。どこかで見た学生服。
彼が死んでから20年ということは、その恋人は40歳近くなっているはずだ。きっともう結婚して子供もいるだろう。彼女の幸せな姿は確かに嬉しいものかもしれない。けれど彼女と結婚しているのは、もしかしたら自分だったかもしれないのに。彼女と今現在幸せな生活を送っているのは、自分だったかもしれないのに。死んでさえいなければ。
辛くないのだろうか、彼は。
「辛くないよ」
智はまたも驚いた。霊はテレパシーも使えるのだろうか。
彼は変わらず笑っている。



「君のことならお見通しだよ」



不思議と怖くはなかった。
ただ。
彼をここまでにさせる、愛とか恋とか、そんなやっかいなもののことを考えると、少し怖かった。